本来は旧暦7月7日の行事ですが、明治の改歴以降は新暦の7月7日や月遅れの8月7日に行われます。
1945年8月7日、アメリカ軍によって、豊川市の海軍工廠に対し空襲が行われました。この空襲で豊川海軍工廠は壊滅、勤労動員されていた中学生・女学生・国民学校児童が多く亡くなりました。
1944年11月23日午後0時30分頃、偵察機F-13(B-29を改造した写真偵察用偵察機)により豊川海軍工廠一体の写真撮影が行われました。
1945年8月7日
午前2時40分~4時ごろ、グアム・テニアン・サイパンよりB-29の4部隊、計131機が離陸
午前6時40分 護衛のP-51戦闘機48機が硫黄島より離陸
午前8時53分 三重県志摩半島沖を通過する編隊をレーダーが補足
午前10時6分 編隊が知多半島上空を通過。豊川海軍工廠へ向かうことが判明、空襲警報発令
午前10時13分 先行していたB-29 12機により豊川海軍工廠への空襲開始。また、P-51による機銃掃射が開始される
午前10時30分 一部の爆弾が誤って東海道本線御油駅に投下される
午前10時32分 帰途途中のB-29のうち1機が静岡県二俣町に爆弾を投弾。
午前10時39分 豊川海軍工廠への空襲終了。投下された爆弾はM64(500ポンド)爆弾813トン。迎撃する戦闘機は皆無で、宝飯郡御津町大恩寺山頂と豊橋市石巻本町、権現山、豊川海軍工廠の高射砲が迎撃をするがB-29が1機被弾したのみ
この空襲により、豊川海軍工廠は壊滅し、その機能を失いました。
人的被害は諸説ありますが、死者2417人、そのうち勤労動員の学生は447人に及びました。
豊川海軍工廠
愛知絵Kん豊川市にあった日本の海軍工廠。機銃、弾丸の製造を行っていました。東洋随一の規模とされていた工廠です。
1937年、航空機の機銃の生産の為に計画されました。三重県鈴鹿市と豊川が候補に挙がりましたが、土地の起伏が嫌われ、豊川に決まります。
1937年3月頃 航空機用機銃を生産する工廠を計画
1938年7月頃 用地買収開始
1938年10月1日 工廠建設準備委員会設立
1939年11月18日 付け、官報第3862(勅令第755号)により名称を「豊川海軍工廠」とする
1939年12月15日 開廠
1940年末より、敷地拡張のための用地買収
1941年12月15日 光学部設置
1942年末、指揮兵器部設置
1943年12月 器材部設置
1944年秋ごろ、緊急疎開が始まる
1945年8月7日 米軍の空襲により壊滅。施設の機能停止。
1945年10月5日 廃止
組織
・機銃部
・第1機銃工場:陸用25㎜機銃、7.7㎜機銃製造
・第2機銃工場:空用13㎜機銃製造
・第3機銃工場:陸用13㎜機銃製造
・第4機銃工場:空用20㎜機銃、30㎜機銃製造
・銃身工場
・銃架工場など
・火工部:機銃の弾丸、信管等の製造
・信管工場
・弾丸工場
・弾莢工場
・火薬工場
・装填工場等
・光学部:測距儀、望遠鏡などの製造
・指揮兵器部:精密照準器の製造
・器材部:機銃部の一部と火工部の器材部門を統合
・鋳造工場
・鍛造工場
・調質工場
・工具工場など
・総務部
・会計部
・医務部
・工員養成所
その他、工廠外施設として豊川海軍共済病院、寄宿舎、海軍集会所などがありました
その跡地は
・陸上自衛隊豊川駐屯地
・名古屋大学太陽地球環境研究所
・日本車両製造豊川製作所
・新東工業豊川製作所
・旭テック
・級熊谷組豊川工場 現テクノス株式会社
・コニカミノルタ瑞穂サイト
などになっています
海軍工廠の正門跡は日本車両製造豊川製作所の正門となっています。
豊橋もかつては軍都ですね。今でもその名残が残っています。
愛知大学は元第15師団司令部でした。現在の愛知大学正門は第15師団司令部の正門です。ちなみに渥美線「愛知大学前駅」の方にある門は戦前は歩兵生徒隊の表門だったそうです。
戦前第15師団砲兵隊が置かれていたのは現在の時習館高校。
工兵第15連隊の跡地には豊橋商業高校
吉田城跡には歩兵18連隊が設置されてました
高師の緑地公園のあたりは高師原演習地ですね
草間町のあたりはレンガ造りの兵舎が並んでいたそうです。
そしてそして!!今はおおきな工場がいっぱいある明海町。。
あそこは元々滑走路だったんですね。
元々陸地は今のバイパスまでで、滑走路のある出島まで橋がかかっていました。
ちょうどその橋があったところでしょう、バイパスに、明海町へ入る交差点がありますが「海軍橋」という名前ですね^^
向山霊園の高射砲跡とか、二川のトーチカ跡とか・・・
あ、愛知大学の向かいにあるパン屋さん、向かって右側はレンガの建物ですが、あれって兵舎の名残だって聞いてます。
空襲と言うと東京大空襲とか、もちろん広島・長崎の原爆とかがまず先に頭に浮かびますが、豊橋豊川でもかなりの規模の空襲がありました。
私は元々豊橋にはなんのゆかりもない人間です。それでもある程度のことは知っているんですが、ずっと豊橋に住んでる人でも豊橋が軍都だったとか、愛大が司令部だったとか知らない人がかなりいます。
以前ちょっと書いたことがありますが、戦争を体験した人のなんというか、気持?みたいなものと言うのは、話を聞いただけではとうてい理解できないんだと思います。
なぜなら、まず私たちは戦争を体験していないですから。隣の火事くらいの感覚でアメリカの湾岸戦争やイラク、アフガニスタンやアラブの春、北朝鮮を見てますもんね。映像では見ますが、じっさいにそこにいたとしたら・・・その状況下における究極の理不尽に耐えられないと思います。
又、教育が全く違います。であれば、当然当時のその人たちの考えなどは今の教育を受けた私たちでは理解できないと思います。
以前読んだ本で、「戦争体験を話しても、かわいそうとかそういう薄っぺらい感想を言われるだけで、自分たちの気持ちは到底理解してもらえないから、話をしないんだ」というのを見ました。
気持ち、わかる気がします。私自身、話を聞いて理解する自信はないです。
でも、それでもやっぱり体験者の方のお話を聞かせてもらって、「戦争」というものがどんなものなのか、想像をすることが大切ではないでしょうか。
その想像をしたことが、きっと明確に戦争反対の意思となるんだと思います。
まあ、いろいろと良くわからないことを書きなぐりましたが^^;簡単に言っちゃえば、自分が住んでる所の大雑把でもいいからある程度の歴史くらい知っとかないと恥ずかしいじゃない?ってことです。
もっと学校の授業とかで取り上げてもいいのにななんて思ってしまう、今日この頃です。