1841年のこの日、イギリスの絵入り諷刺週刊誌「パンチ」が発刊されました。
1992年に終刊になるまで151年間発行されていたそうです。
日本では1862年に日本語版の「ジャパン・パンチ」が発刊されました☆
さて、昨夜は仕事を終えてから映画を見ましたよ^^
「特攻サンダーボルト作戦」。
1977年に公開された、アメリカのテレビ映画です。
監督・・・・・アーヴィン・カーシュナー
脚本・・・・・バリー・ベッカーマン
出演・・・・・ピーター・フィンチ
マーティン・バルサム
ホルスト・ブッフホルツ
チャールズ・ブロンソン
他
1976年6月27日に発生したエールフランス機のハイジャック事件から、7月4日に実行されたエンテべ空港奇襲作戦で人質が救出されるまでの8日間を描いた作品です。
日本では当初「エンテべ空港奇襲作戦」という邦題で劇場公開される予定でしたが当時、日本政府が親アラブ的姿勢を保っていたこともあり、「政治的理由」で中止となった作品です。10年後に、「特攻サンダーボルト作戦」と改題されて公開されました。
のちにテレビ放送された際は、固有名詞が架空のものに変更され、フィクションとされました。
確かに、吹き替えで見ていると一部の固有名詞が架空のものになっていましたが、下の字幕はまんまでした。。
エンテべ空港奇襲作戦
エールフランスのハイジャック事件においてイスラエル国防軍が7月3日から4日にかけて実施した人質救出作戦です。結果的に突入部隊の誤射で亡くなった3名と、病院に搬送されていた1名をを除く乗客全員が解放され、救出作戦では稀に見る成功を収めました。
ギリシャのアテネ空港を離陸したエールフランス139便は離陸後に4名のテロリストによってハイジャックされます。
実行は「パレスチナ解放人民戦線・外部司令部(PELP-EC)」のメンバー2名と、西ドイツのテログループ「革命細胞」の2名。
248名の乗客とミケル・バーコス機長以下12名の乗員を乗せた機は、リビアのベンガジにあるベニナ空港で妊婦と身体障害者の人質の解放と、給油を行いその後、ウガンダのエンテべ空港に強行着陸します。
エンテべ空港で、ウガンダ政府の支援のもと、さらに4名のテロリストが合流します。
ウガンダのイディ・アミン大統領は、かつては親イスラエル派でしたが、イギリスをはじめとする西側諸国や近隣諸国との対立の中で半イスラエル派に転じていました。
256名の乗客は、イスラエル人およびユダヤ人を残して解放されます。
救援のために飛来したエールフランス機での解放でしたが、機長のミケル・バーコスは乗客の安全は自分の責任だとして、残ることを決めます。全乗務員は自らの意思で、機長と共にエンテべ空港に残りました。のちに、解放後、バーコスはエールフランスの上司に責され、職務停止の処分をうけたそうです。
犯人グループの要求はイスラエルで服役中のテロリスト40名の解放でした。
イスラエルのイツラク・ラビン首相率いるイスラエル政府は人質釈放に向けてアミン大統領へ直接交渉を行うだけでなく、アメリカ屋ソ連を経由してもアミン大統領へ交渉を働きかけます。特にイスラエルの退役軍人、バー・レフ将軍はウガンダ軍への軍事訓練を通じてアミン大統領との長年の知己で、政府の要請で電話でアミン大統領と何度も話をしましたが交渉は難航していました。
ラビン首相は交渉を模索すると同時に軍事的手段の実行による解決も模索しており、軍に作戦の検討を指示、「軍事的手段の行使による人質の解放が可能」との報告を受け、人質救出作戦「オペレーション・サンダーボルト」の実行を決意します。
作戦は、4機のC-130輸送機とイスラエル国防軍の対テロ特殊部隊サイェレット・マトカルのメンバーを含む100名以上のイスラエル兵が派遣されました。
この作戦、イスラエルでは「オペレーション・ヨナタン」ともよばれているそうです。作戦で唯一戦死したヨナタン・ネタニヤフ中佐に因んでの呼称だそうです。
イスラエル人の人質の一人、ドーラ・プロッホ(75)が呼吸困難のためカンパラ市内の病院に収容されていましたが、イスラエル軍は事前にそのことを知らなかったため彼女は病院に取り残されてしまいます。イスラエル政府は様々な交渉ルートを通じてアミン大統領にブロッホの解放を呼びかけますが、事件に激怒したアミン大統領は交渉を無視し続けました。
1987年4月、ウガンダのヘンリー・キエンバ厚生大臣が「ドーラ・ブロッホがアミン大統領の命令を受けた2人のウガンダ軍将校によって病院のベッドから引きずり出され殺害された」と、ウガンダの人権委員会に訴えました。ブロッホの遺品は、タンザニアとウガンダの紛争でアミン政権が打倒された1979年に返還されました。